たとえあなたが私の願いを叶えてはくれなくても、誰かの祈りが通じた事実があるのなら、祈りという概念が捨て去られていないのならば、人は夢を見ていけるのだ。
(略)
私はそう思っている。そして神様は、そんな私を聖女に選んだ。
ならば、私の神はそういう存在なのだ。
アデウス国の象徴であり、神の代弁者とも言われる聖女。
その十三代目を務めていたマリヴェルは、しかしある日周囲の人々の記憶から消え去ってしまった。
誰も知らないうちに神殿の奥部へ侵入した不審者として囚われ、外に追い出された彼女はスラムに流れ着き、しばらくはそこで逞しく暮らします。
それもそのはず、マリヴェルは元々スラム出身の名も無き少女で、現在の神官長に保護され聖女になったという経緯があって。
スラムでいい感じに薄汚れた住人と同化しつつあったある日。なぜか彼女の事を忘れていない唯一の神官、エーレと出会います。
彼はマリヴェルの記憶が人々から消え去った時、出張に出ていた関係で追放される場面に居合わせなかったんですね……。
マリヴェルの認識において「知り合い以上、友達未満」の相手であるようですが……彼には聖女についての記憶があり、神官としての責務を果たせる相手であった。
エーレがマリヴェルに向ける態度には確かな敬意と――本人たちは認めたがらないでしょうけど親愛があった。
本当はそれを、彼女を追いだした人々も向けてくれていたんだと思うと心が痛む。
本人が割とケロッとしてるように見えたから、誤解しがちですけど。彼女にとって神殿は、傍にいる神官たちは、家族のような相手で。
そんな人々からの記憶がなくなってしまって、辛くない筈がないんですよね。一人だけでも記憶が残っていて本当に良かった。
……いやまぁ、当人のノリが軽いのも確かなんですけどね。勉強などから逃げすことも多くて、神官たちの追跡・捕縛の技術は向上したようですし。お仕置き用の「こめかみ掘削拳」が神官長からエーレに直伝されてる辺りとか、ほかにも皆伝貰ってる神官がいるくだりは笑えます。
スラム出身であることや先代の聖女が偉大だったために、彼女には敵が多かった。今回の忘却も、そうした敵の打ってきた手だと思われた。
神殿のみならずアデウス国中から聖女の記憶を消し去ってしまう、なんて常識はずれの術を使える存在がいるか、と言われると心当たりがさっぱりない状態で。そんな相手に後手に回ってる状態を思うと中々に頭が痛いですが。
象徴としての聖女が不在の状況はよくない、と選定の儀式が行われることになって。
マリヴェルはかつて突破したその儀式に乗り込みます。そこでも敵の手と思われる妨害工作に遭遇したりしますが、折れずに進み続ける彼女の在り方はとても尊い。
特に、第三試験の場面が良いですよね。彼女は確かに言動が軽く、聖女という立場を何だと思ってるのかって、他の受験者に云われてしまう程です。
でも、彼女の心は間違いなく聖女に向いてると思うんですよ。彼女はスラム出身と言う事もあって、自分の価値を見出していない。汚れているとすら思っている。
でも気高く美しく優しい神官長のような人に憧れて、自分がそうなれるとは思わないけど側にいられるだけの真っ当な人間に近づきたいと思う気持ちはある。
だから、神官長が侮辱されるような事に対しては怒りを示し、謝罪を要求する。どこまでも人間らしい彼女が本当に好き。
巻末には描き下ろしの『忘却神殿』が収録。
エーレ視点で、メインは彼がまだ十三歳だったころを描く過去編ですね。
マリヴェルが聖女になってから三年ほど経過した辺りだそうで。脱走した彼女と出くわしたり、聖女を狙った拙い謀略を見たり。
今よりも自分の価値を認めてなかったマリヴェルの姿や、彼女と距離が近い神官たちの姿が描かれていて、本編との違い過ぎる距離感に心が痛くなる短編でしたが読めて良かった。取り戻せるといいなぁ……。